探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典-よ-


横田順彌(よこた・じゅんや)

1945年(昭20)、佐賀県生まれ。法政大学法学部卒。別名真木じゅん。
1969年(昭44)、鏡明とともに同人誌「SF倶楽部」を創刊。
1971年(昭46)、同人誌に発表した「友よ、明日を…」が「SFマガジン」に掲載。
1978年(昭53)に「オール読物」に発表した「珍説地球最後の日」は日本文藝家協会の「現代小説'78」に収録される。
1982年(昭57)、「日本SF古典こてん」が第35回日本推理作家協会賞評論その他部門の候補となる。
1988年(昭63)、曾津信吾との共著である「快男児押川春浪」で第9回日本SF大賞受賞。
1991年(平3)、日本SF作家クラブ事務局長に就任。
ハチャハチャSFを確立。埋もれた古典SFの研究者でもある。

幻影城掲載誌:3/


横溝正史(よこみぞ・せいし)

1902年(明35)、神戸市生まれ。大阪薬専卒。横溝亮一は長男。戦後、「新青年」編集長を務めた横溝武夫は異母弟。渡辺剣次は一時、義理の息子だったが、のち離婚に至る。
神戸二中時代、西田政治らの影響で探偵小説に開眼する。ビーストンを発見したのは中学生時代の横溝正史。別名山名耕作、阿部鞠哉、蓼科三。
1921年(大10)、「恐ろしき四月馬鹿」が「新青年」に投稿に一等入選。
1921年(大10)、「深紅の秘密」が「新青年」増刊の特別懸賞に三等入選。
1921年(大10)、「一個の小刀より」が「新青年」の懸賞に一等入選。
1925年(大14)、探偵小説趣味の会を結成し、江戸川乱歩と知り合う。。
1925年(大14)、江戸川乱歩の勧めで上京。
1925年(大14)に「苦楽」に発表した「丘の三軒家」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第一号(1925年版)」に収録される。
1926年(大15)に「小説サンデー毎日特別号」に発表した「飾窓の中の恋人」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第ニ号(1926年版)」に収録される。
1927年(昭2)、江戸川乱歩の紹介で、「新青年」編集長に就任し、モダニズムが横溢する誌面を構成。この時代に「犯罪を猟る男」「角男」「あ・てる・てえる・ふいるむ」など江戸川乱歩の代作がある。
1927年(昭2)、「大衆文芸」に発表した「山下耕作の不思議な生活」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第三号(1927年版)」に収録される。
1928年(昭3)、「文芸倶楽部」の編集に携わる。
1928年(昭3)に「小説サンデー毎日特別号」に発表した「劉夫人の腕環」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第四号(1928年版)」に収録される。
1931年(昭6)、「探偵小説」の編集に携わる。クイーンの「オランダ靴の謎」、メースンの「矢の家」、ベントリーの「トレント最後の事件」、ミルンの「赤い館の秘密」、クロフツの「樽」などを掲載。
デビュー時には、明るく都会的なモダニズムが溢れ、ユーモアとペーソスとウィットに富む作風だったが、
1932年(昭7)、森下雨村の退社と機を同一にし、博文館を退社し、文筆専業となるが、1933年(昭8)、「新青年」に「面影双紙」を発表してまもなく、喀血。「新青年」に「死婚者」を発表するはずだったが、書けなくなったため、「新青年」は代打として小栗虫太郎を「完全犯罪」でデビューさせた。
横溝正史は信州の正木不如丘の富士見高原療養所に転地療養をする。療養再起後、1935年(昭10)、「新青年」に「鬼火」を発表してからは、因習に根ざした邪悪を耽美幻想的に描写する作品に転じていった。谷崎潤一郎佐藤春夫など、日本の耽美主義文学の影響が見受けられる。1937年(昭12)からは戦時下につき、探偵小説の注文も途絶えるようになったので、捕物帳、時代小説、少年物も手がけるようになった。
1935年(昭10)、「新青年」に「蔵の中」を発表。
1937年(昭12)、「不知火甚左捕物双紙」を「講談倶楽部」に発表。
1938年(昭13)、「人形佐七捕物帳」の第一話「羽子板娘」を「講談倶楽部」に発表。
1942年(昭17)、井上英三から借りた原書によってディクスン・カーを知り、1945年(昭20)、岡山県に疎開後は一変して、本格物を指向するようになった。
1946年(昭21)、「宝石」に発表された「本陣殺人事件」は、1948年(昭23)、第1回探偵作家クラブ賞を受賞。同時平行して「ロック」に執筆された「蝶々殺人事件」も第1回探偵作家クラブ賞長編賞の候補となり、戦後本格の隆盛を導いた。「蝶々殺人事件」は1946年(昭21)に没した小栗虫太郎の「悪霊」第一回の後を追って掲載された。
1946年(昭21)に「新青年」に発表した「探偵小説」が第1回探偵作家クラブ賞短編賞の候補となる。同時に探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1948年版」に収録される。
1947年(昭22)に「小説」に発表された「黒猫亭事件」(黒猫)が、1949年(昭24)、第2回探偵作家クラブ賞長編賞の候補となる。
1947年(昭22)に「サンデー毎日増刊」に発表した「泣虫小僧」が、探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1949年版」に収録される。
1948年(昭23)、「宝石」に連載された「獄門島」は、1949年(昭24)、第2回探偵作家クラブ賞長編賞の候補となる。日本屈指の名作として名高い。
1949年(昭24)、「時事新報」に発表した「女が見ていた」が1950年(昭25)、第3回探偵作家クラブ賞長編賞の候補となる。
1951年(昭26)に「改造」に発表した「百日紅の下にて」が、探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1951年版」に収録される。
1949年(昭24)、「読物春秋」に発表した「車井戸はなぜ軋る」で1950年(昭25)、第3回探偵作家クラブ賞短編賞の候補となる。同時に探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1950年版」に収録される。
1951年(昭26)に「新青年」「宝石」に発表した「八つ墓村」が、1952年(昭27)に第5回探偵作家クラブ賞の候補となる。
1953年(昭28)に「宝石」に発表した「悪魔が来たりて笛を吹く」が、1954年(昭29)に第7回探偵作家クラブ賞の候補となる。
1954年(昭29)に「オール讀物」に発表した「蜃気楼島の情熱」が、1955年(昭30)に第7回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。また、日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1955年版」に収録される。
1955年(昭30)に「オール讀物」に発表した「廃園の鬼」が、1956年(昭31)に第9回日本探偵作家クラブ賞候補作となる。また、日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1956年版」に収録される。
1956年(昭31)に「オール讀物」に発表した「迷路荘の怪人」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1957年版」に収録される。
1957年(昭32)に「太陽」に発表した「支那扇の女」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1958年版」に収録される。
1957年(昭32)、「宝石」に「悪魔の手毬唄」を発表。
1958年(昭33)に「オール読物」に発表した「悪魔の降誕祭」が日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1959年度版」に収録される。
長らく乗り物恐怖症であり、外出ができなかったが、1960年(昭35)頃からアルコールの助けをかりて克服し、外出できるようになった。酒豪としても有名である。編み物も得意。
1970年(昭45)に講談社より「横溝正史全集」が刊行され、「少年マガジン」にて「八つ墓村」がマンガ化、さらに角川文庫から文庫が発刊されるに及んで、1974年(昭49)頃から横溝ブームが起こる。2000年(平12)には角川文庫だけで6,000万部を突破した。
1971年(昭46)、「探偵小説五十年」を発表。
1974年(昭49)、「仮面舞踏会」を刊行。
1976年(昭51)、勲三等瑞宝章叙勲。
1975年(昭50)、「病院坂の首縊りの家」を「野性時代」に発表。この作品は1978年(昭53)に「週刊文春」の78年「傑作ミステリーベスト10」の9位に選ばれる。
1979年(昭54)、「野性時代」に「悪霊島」を掲載し、1980年(昭55)に「週刊文春」の80年「傑作ミステリーベスト10」の7位に選ばれる。
1981年(昭56)、結腸癌のため死去。
2004年(平16)、生誕地である神戸市東川崎に記念碑が設立される。

幻影城掲載誌:1/5/6/7/13/15/16/18/21/22/23/24/25/27/28/31/32/33/34/36/38/別冊幻影城掲載誌:1/8/11/14/16/作家が語る探偵小説観/日本長編推理小説ベスト99/

横溝正史に関するサイト:「かけや's Pages & 横溝正史クロニクル」


横溝亮一(よこみぞ・りょういち)

1931年(昭6)生まれ。横溝正史の長男。音楽評論家。

別冊幻影城掲載誌:1/


吉野賛十(よしの・さんじゅう)

本名永田東一郎。1903年(明36)、東京生まれ。「麺麭」や「風土」などの詩雑誌の同人でもあった。娘は第十回児童文学者協会新人賞を受賞した童話作家の日野多香子。
東一郎名義で「新青年」に投稿し、二度ほど入賞経験がある。
1930年(昭5)、「新青年」増刊号に「ロオランサンの女の事件」が掲載される。
1954年(昭29)、木々高太郎の推薦を得て、「探偵実話」に「鼻」を掲載。
1956年(昭31)、河出書房が刊行した「探偵小説名作全集」の別巻として書き下ろし長編を募集し、「黒死体事件」が三位入選。しかし、社業不振のため、中止となり、原稿は失われてしまった。
1973年(昭48)、死去。

幻影城掲載誌:21/


米田三星(よねだ・さんせい)

本名米田庄三郎。1905年(明38)、下市市生まれ。大阪帝国大学医学部卒。
雑誌「受験と学生」に掌編を発表したのち、1931年(昭6)、「新青年」新人十二ヶ月に「生きている皮膚」を掲載。

幻影城掲載誌:44/


米田祐太郎(よねだ・ゆうたろう)

1891年(明24)、東京生れ。東京外語大学支那語科卒。別名米田華※[#“舟”偏に“工”]、北條太郎。南沢十七は甥。満鉄社員、関東庁嘱託を経験。また、中国にて「日華製粉株式会社」を設立。
1922年(大11)、「支那語文法研究」を刊行。
1923年(大12)、「週刊朝日」に「泥美人」を発表。
1923年(大12)、米田華※[#“舟”偏に“工”]名義で「サンデー毎日」に「支那の音曲」を発表。
1923年(大12)、「週刊朝日」に「探偵小説 黄龍の目」を連載。
1928年(昭3)、 川端男勇(のちの南沢十七)と共著で「東西媚藥研究」を刊行。
1939年(昭14)、「新青年」に「金扇殺人事件」を発表。

米田祐太郎に関するサイト:「米田祐太郎について」


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